「銀河の里」は農が基盤だと勝手に思ってきた。それになんの根拠もなければ理論もちあわせている訳ではない。もともと「理念」などという堅いことは嫌いなので、気軽な直感なのだが、その直感はさほど外れてはいなかったようだと最近特に感じ始めている。
できれば職員スタッフも全員が農に関わってもらいたいとも思っている。
「福祉や介護の世界で、何で農業」と感じる人もいるかも知れないし、「大変でもうからない農業はもうやめても良いのではないか」という人もいる。
しかし、「銀河の里」がはじまるまで10年、農業をやりながら準備を進め、産直などで多くの人に支えられ「銀河の里」が生まれたという歴史は無視できない。
さらに大事なのは介護など、人と人が関係するところに成り立つ仕事には、関係性の深さや奥行き、厚みといったものが必須だということだ。限定的な知識や技術を寄せ集め、短絡的で一方的な介護が行われるだけなら、薄っぺらで魅力や価値の低い関係に成り下がってしまう。そうした例を我々は福祉の現場のみならず、現代の社会のあらゆるところで見せつけられている。それと同様のことを「銀河の里」でやってしまってはなにも意味がない。「銀河の里」で暮らしを重視しているのはそのためである。
人間は元々全体的な存在であるということを忘れてはならない。専門性を鍛えながら、いかに全体性を生きるかということに現場の課題があるはずだ。言い換えれば専門性を発揮する基盤として、いかに生きるのかという自らの課題と向き合い、そこで自らがしっかりと生きている必要がある。
一般的に、便利と快適を高度に手に入れた現代社会は、人間とあらゆる事柄との関係性が分断し、結果として個々の生き抜く力そのものはますます弱って行きつつあるのが現状であろう。自他の生命とのリアリティが欠乏していく現象が様々な形を取りながら社会に噴出してくる。
農はそういう意味では、繊細でリアルな生命との接触と関係を迫られる。バーチャルが入り込む余地がない。つまり、播種から収穫まで、さらに食として人間の命に還元されるまで、すべて具体であって、抽象化されることがない。
我々は痴呆症という抽象を扱うのではない。一人の人間と出会うのだというところは農の基本にある具体に向かう姿勢であり、そうした姿勢を学べる場は現代ではほとんど無いに等しいとしたら、農は実に貴重な体験を我々に与えてくれるはずである。
「銀河の里」に取っても、一人一人のスタッフに取っても農は基盤となるのではなかろうか。
posted by あまのがわ通信 at 00:00|
Comment(0)
|
日記
|
|